2004/09/25 友禅への思い−5

宮崎友禅斎

友禅染の歴史をたどるとき、宮崎友禅斎を忘れるわけにはいきません。江戸元禄期に京都東山知恩院の門前町に住まいし、扇絵師として非常に人気がありました。井原西鶴の「好色一代男」に、友禅の扇を持たずしてお洒落な人とはいえないとの記述があります。

あるとき、呉服屋に小袖模様の図案を依頼されたことから、彼は着物の図案に手を染めるようになりました。

友禅斎が広めたのはまずその斬新な図案でした。当時の幕府は衣服制限令を出して、それまでの豪華な金糸銀糸の刺繍や総絞り染めなどを禁止してしまったため、人々はそれにかわる新しいデザインを求めていました。扇絵師だった友禅斎は扇絵に使った斬新な図案を着物にもとり入れました。それまでの着物にはなかったデザインと、美しい色づかいは、人々を魅了することになります。

友禅斎が最初に描いた小袖模様は、竹や梅、四季の草花を丸の中に描いたものでした。この図案を元に染められた着物は絵のように華やかで、これまでにない美しいものでした。これまでとちがった絵画的な模様の着物は大評判になり、「友禅染」と呼ばれることになったのです。

友禅斎は1712年に金沢の御用紺屋棟取・太郎田屋に身を寄せ、室町時代からすでに高い染色技術を持っていたこの地で、友禅糊(防染糊)による染色技法を伝えました。加賀ではその技法をもとに、花鳥風月が写実的に描かれる”加賀友禅”が確立しました。

その後、加賀五彩といわれる藍、臙脂(えんじ)、黄土、草、古代紫を基調とした色彩と、ボカシや虫喰いといった技法、京都で行われた金糸銀糸による刺繍や箔押しをしないなど、加賀独特の写実的で深みのある友禅染に発展してきました。その伝統は現在も引き継がれ、京友禅と加賀友禅の違いを際だたせています。

宮崎友禅斎。生地生年不詳、83歳で没。大正9年に金沢の東山、竜国寺に23回忌に建立された碑が発見され、毎年5月17日には友禅忌の祭典が催されています。しかしながらその没地は加賀であるとも京都であるともいわれ、いまだに定説はありません。


2004/09/02 友禅への思い−4

友禅と職人

手描き友禅は作家以外にも多くの専門職人が携わるのが普通です

・白い絹布に下絵を描く
・下絵に沿って糊を置く(糸目糊置き)
・彩色
・蒸し
・彩色の上から糊をかぶせる(伏せ糊置き)
・地染め
・再び蒸し
・洗い(糊を洗い流す)

何度かそれらの専門職人と私との間を行き来して友禅染はできあがります。友禅作家はそれらの仕事の中心にはいますが、私1人では友禅染は成立しません。またそれぞれの専門職人と、私との意思の疎通がうまくいかなければ、意図したした作品になりません。

私は次の工程を考えながら作品に色を付けます。次の職人は私の意図するところをくみ取って作業します。たとえば地色のぼかしは地染め職人の仕事ですが、そこに私が意図した色とぼかし具合が実現しなければ、目指した作品にはなりません。私の意図が正確に伝わることがとても大切なことなのです。

良い作品を生み出すには作家の技術もさることながら、それらの職人との日頃からのコミュニケーションがとても大切なのです。技術の上での妥協ではなく、次に作業する人のことをよく理解して描いた作品は、次の工程でもその次の作業をスムーズに運ばせることになります。

友禅染はそのネットワークとチームワークの産物であるとも言えます。


2004/08/17 友禅への思い−3

友禅と糊

友禅染において、糊は欠かすことのできない材料です。水に溶けた染料が作り出す「にじみ」をコントロールして、その美しさを表現する手助けをします。

まず最初に図柄の境界線に糊を置くことで、その外側への染料のしみこみを防ぎます。次に糊で囲まれた部分に彩色を施します。彩色は薄い色から濃い色へと順に行われ、このとき違った色を使った「ぼかし」の技法が用いられます。

図柄の彩色がすんでから地色の染色ですが、このときには彩色のすんだ図柄の部分に糊がかけられます。これからかける地色の染料がしみこまないためで、絹布の同じ部分にに2度染料をかけることはありません。

地色は刷毛でまんべんなく塗ります。大きな部分をまんべんなく塗るという技術も、きわめて大切な技術で、ここでも「ぼかし」が使われることがあります。

いずれの工程も、失敗したら消しゴムで消す訳にはいきません。その一瞬一瞬、一筆一筆が勝負です。

彩色の時に、あらかじめ染料を溶かした水に糊を混ぜることがあります。染料のにじみをおさえ、彩色を際だたせるために使います。 反対に薄くぼかしをかけるときには、彩色の前に絹布を水でしめらせてから彩色します。

このように糊は友禅染では大きな働きをしていますが、悲しいことにできあがった友禅染にその糊は残っていません。仕上げの工程で、残った染料と共に洗い流されてしまい、わずかに白い線がその痕跡を主張するのみです。


2004/07/30 友禅への思い−2

白い線の秘密

クリックすると拡大画像が見られます加賀友禅の絵には、白い線で縁取られたものが多くあります。これは染料を使ったものではなく、染料のにじみをコントロールする技なのです。

この色はもとの絹布の色で、この部分に染料がしみこまないように工夫した結果、絹布の白い色が残りました。水に溶けた染料は、繊維を伝って広がっていきます。その防波堤になるのが糊です。餅米から作った糊は、ツユクサの染料で描かれた線の上に置かれます。

クリックすると拡大画像が見られますこれに布の裏からゴジル(豆汁)を塗りつけます。その結果、染料はそこから先へは進むことが出来ず、その部分は、最後に糊を溶かし去るまで色が付くことなく仕上がります。下書きのツユクサの線は、ゴジル(豆汁)を塗った時に消えてしまいます。

現代の技術を持ってすれば、こんな事をしなくてもにじみはコントロールできますが、この白い線が友禅の証であり、これによって手書き友禅の美しさが表現されています。


2004/07/14 友禅への思い−1

文化の違い

クリックすると拡大画像が見られます紙にしろ布にしろ、それらを構成するのは繊維です。染料や顔料は、繊維にしみこむ前にその隙間を水と共に移動し、それは「にじみ」となります。

その「にじみ」を嫌ってできあがったのが洋紙とインク、キャンバスと油絵の具。反対に「にじみ」を利用したのが和紙と墨の水墨画、絹布の友禅染、絞り染めなどです。

日本の文化は「にじみ」の文化ともいえます。この「にじみ」をコントロールすることで、絹布に自由で美しい絵を描く技を開発したのが、元禄年間に現れた宮崎友禅斎です。それまでの金糸銀糸の刺繍では得られなかった、リアルな絵を着物に取り込むことで、友禅染は多くの女性を魅了し、人気を博すことになります。

以来日本の各地で友禅染は作られました。特に発祥の地京都と、後に友禅斎が移り住んだ加賀で、その技法がそれぞれの地域独特の技として完成され、今日に至っています。